悲しみのいちじく

今後いつまでも、おまえの実はならないように。マタイ15・37

朝エルサレムへ向かう途中、空腹を覚えたイエス・キリストは、道端のいちじくの木に近づきました。ところが、いちじくの木には実がありませんでした。そのときキリストがいちじくに命じて語ったのが上のことばです。このように言うといちじくは枯れてしまいました。
空腹だったのに実がなかったら腹いせにいちじくの木を枯らせたように見えます。しかしこのできごとが起きたのは、三月から四月の祭の時期。つまりもともといちじくの実ができていない時期でした。実はこのできごとは、堕落した宗教指導者たちに、そのままでは滅ぼされてしまうという警告を与え、悔い改めるように促すために行われてできごとでした。
このできごとは、イエス・キリストが十字架にかかる数日前に行われました。イエス・キリストは自分に敵対する人たち(堕落した宗教指導者たち)に正しい道に立ち返る機会を与えようとしたのです。そして、イエス・キリストはこのような人たちのためにも十字架にかかるのです。
このように聖書には、ただ読んだだけでは意味が分かりにくい話があります。教会ではそのような話も、礼拝の中で、牧師がわかりやすくお伝えしています。

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